2021年03月29日

第4回 第二の誕生

 人間は2度生まれる。
 フランスの思想家ルソーはそう言いました。1度目は生き物として、母親のおなかの中から生まれ出ることをさし、2度目は子どもから大人に成長することをさしています。
 ただ、これは非常に近代的な考え方なのであることに注意してほしいのです。というのも、産業革命以前では、子どもはそれぞれの社会集団の中で子どもとして大人の中で育ち、成人となる儀式を経て、そこからはすぐに一人前の大人扱いをされるものだったから、大人として生まれ変わるとかいう理屈は存在しなかったのです。
 江戸時代、日本の武士の子どもの場合は子どものころは前髪をのばしていて、男の子は「元服」という儀式でその前髪をそり落として名前も「幼名」から正式な名前を与えられました。女の子は稚児髷と呼ばれる髪型から島田髷と呼ばれる髪型に変わり、結婚したら丸髷という髪型に変えました。見た目を変えることによって、その人が子どもか大人かわかるようになっていたのです。
 そこには、子どもから大人になるときに葛藤したり、自分は大人のつもりなのに子ども扱いされると言って怒ったりなどということは起こりません。それはそうです。一目見て、「この人は前髪をそっているから大人だ」と誰からも認められるし、自分もそういう意識を持って行動するようになるからです。
 しかし、近代社会では学校に通いながら、大人なんだか子どもなんだかよくわからないような期間を経て社会に出るようになります。学校に通っているうちに、女性は初潮を迎え、男性には変声期や発毛、精通などが起きて、身体的には大人に成長していきます。「第二次性徴」です。それでも学生の間は社会的には一人前とは認めてもらえず、子ども扱いです。
 そのため、自分の意識のうちに「私は大人である」という自覚が芽生える「第二の誕生」という現象がみられるようになるわけです。
 この「大人なんだか子どもなんだかよくわからない」期間の若者のことを、ドイツの心理学者であるレヴィンは「境界人(マージマル・マン)」と呼び、子ども社会と大人社会の間にいるものだと定義しました。
 この時期、若者の多くは自分を子ども扱いする大人(たいていは親です)に対して大人と認めさせようと、「よい子」であることをやめようとします。これが「第二反抗期」ですね。それまでは学校であったことや友だちのことをすべて親に話していたり、子ども部屋に入られても平気だったのに、この時期になると親と口をきかなくなったり、部屋に入られるのを嫌がったりするようになるという様子が見られるようになることが多いのです。みなさんの場合はどうでしょうか?
posted by 喜多哲士 at 08:20| Comment(0) | 青年期 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月25日

第3回 「青年期」について考える

 さて、ここからいよいよ本題に入っていきます。
 最初に扱うのは「青年期」です。ここでの目的は、高校生の時期の心理をみなさん自身の問題としてとらえてもらおうというものです。
 実は、これは非常にやっかいなものなのです。
 人は、一人一人が性格も成長速度も違います。小学生の段階で反抗期を迎える人もいれば、反抗期を経験せずに大人になり、社会に出てから壁にぶち当たる人もいますし、壁をうまくすり抜けて精神的には中学生とかわらないまま、何食わぬ顔で大人の世界で生きていく人もいます。
 多様な人々の心理を、まとめて「青年期」と切り取ってしまうことは危険な面をはらんでいます。精神的に成熟したいわゆる「大人びた」生徒には、これから説明することは小学校時代に経験したものであるでしょうし、いつまでも「よい子」のまま高校生になってしまいそのことに何の疑いも持たない生徒には、何のことかさっぱりわからなかったりするでしょう。
 現代では「発達障がい」と呼ばれる人が多くいます。精神的な成長にでこぼこがあり、ある部分では老人のようであったり、ある部分では幼児のようであったりします。育児放棄(ネグレクト)のために「愛着障がい」と呼ばれる非常にかたよった成長の仕方で高校生になった生徒もいます。
 僕は知的障がいの特別支援学校に9年間勤務し、次に転勤した学校では知的障がい児の自立支援コースが設けられていて、一般の高校生と障がいのある生徒との共生教育というものを3年間担当したこともあります。
 そういう経験があると、すべての若者が同じように「青年期」を過ごすとは限らないことを実感することになります。
 だから、このブログでは“多数の若者が経験する”「青年期」という非常に大雑把なくくりでみなさんに説明しなければならないということを心にとどめておいてください。
 先ほど「反抗期」という言葉を何の説明もなく使いましたが、大人の言動に対していちいちつっかかってしまうような時期を通り過ぎて、人は成熟していくのだという考え方があるということを前提に使っています。その場合、「反抗期」という言葉は自分ではもう大人のつもりなのにいつまでも子ども扱いされることへのいらだちが前面に出てくる時期があるということが前提になってきます。
 しかし、子どものころから豊かな才能をもち、周囲に大人扱いされて育った人にはあてはまらない。「青年期」のやっかいさをわかってもらえたでしょうか。
posted by 喜多哲士 at 08:25| Comment(0) | 青年期 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月22日

第2回 「倫理」ってなんだ(2)

 さて、今回は「倫理」とは何をする科目かということについて考えてみることにします。
 手元の「三省堂国語辞典 第七版」で「倫理」という言葉を引いてみます。「善悪の基準(として守らなければならないことがら)」とあります。派生語として「倫理学」もあり、これは「道徳の判断や基準について研究する学問」とされています。「新明解国語辞典 第五版」では「倫理学」はもっと踏み込んで「道徳とは何か、善悪の基準を何に求めるべきかを通して社会的存在としての人間のあり方を研究する学問」とあります。
 うーむ困りました。「善悪」や「道徳」の基準そのものを研究することとそれを通じて「人間のあり方」を研究するのとではその目的が違います。同じような言葉を使いながら、二つの辞書は全く違う意味を指し示しているのです。
 では、文部科学省は「倫理」という科目についてどう定義しているのでしょうか。平成30年3月告示の「高等学校学習指導要領」には「倫理」という科目の目標についてこんな風に書いています。
「人間としての在り方生き方についての見方・考え方を働かせ……」
 高校で学ぶ「倫理」は、辞書でいうと「新明解」の解釈に近いようですね。
「人間のあり方」なんて、答えは一つではありません。それぞれの人がそれぞれの立場で見つけ出していくような性質のものです。
 だから、「倫理」の教科書や資料集を開いてみてみると、目次には古今東西の哲学者や宗教家の名前が並んでいます。中には相反した考えの人が前後していたりもします。
 つまりこういうことです。高校の「倫理」とは「人間のあり方」を研究するために、様々な人の考え方を知ってもらい、それをもとに自分なりに答えを出してみる、というような科目らしい。
 実は、ここがポイントなのです。
 僕はこのブログでこれからいろいろな「善悪の基準」を紹介していく予定なのですが、それは専門の研究家から見たら上っ面をなでているだけとしか感じられないものもあるでしょう。間違った解釈をしているととられてしまうものもあるに違いありません。
 実は「倫理」という科目としてはそれでいいのだ僕は思っています。まず、さまざまな考え方や物の見方のサンプルを見ていただき、そこから自分に合ったものを見つけ出していただきたいのです。高校で「倫理」という科目を学ぶというのは、そこに意味があるのではないかと、僕は考えています。
 そう考えると、同じ公民科の「政治経済」、あるいは社会科の「地理」や「歴史」と比べると、やっぱり異質な科目だなあと思うのです。
posted by 喜多哲士 at 17:22| Comment(0) | はじめに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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